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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [10]




「俺が誰と何をしようと俺の勝手だろう?」
「それはそうでしょうけれども、でもこれは、栄一郎様の身を思っての事なんですよ」
「何が言いたい?」
「あの女工、栄一郎様の他にも別の男と会っているらしいですよ」
「他の、男?」
 思いも寄らない言葉。
「なんだよ、それ」
「所詮は農民上がりという事です。言い寄る男は断らず、誰彼相手にしては楽しんでいるんでしょうね。まぁ、栄一郎様のような方から声を掛けられれば、誰だって断ったりはしないでしょうけれどもねぇ」
 早苗が俺の誘いを断らないのは、俺が栄一郎様、だからなのか?
「下品な貧民が考えている事など、所詮は金ですよ。男を手玉に取って(みつ)がせるようなフシダラな女にすぎないのではないかと」
「アイツが?」
「所詮は無知な女工ですから」
 ニヤリと口元を緩める相手の表情に、吐き気を感じた。同時に怒りも。
 その日のうちに呼び出した。
「男? あぁ、内藤さんの事かしら?」
 あっさりと認める早苗の姿に、いっそうの怒りが沸いた。
「お前っ!」
「それが何か?」
 悪びれもせずにケロッと答える姿に、思わず胸倉を掴んでしまっていた。
「お前、どういうつもりだ」
「くるし、い」
「お前、お前はっ」
「どういうって」
 ふくよかな唇から苦しげな吐息が漏れる。その艶やかさが更に栄一郎を煽る。
「その男は誰だ?」
「誰って」
「どういう関係だ?」
「どうしてそれを、言わなく、ちゃ」
 言えない理由でもあるのか?
「ないと、う、さんは、アンタとは、何の関係も、な、い」
 関係ない、だと?
 握り締める手に力が篭る。
 確かに、その男は自分には何の関係も無いのかもしれない。それどころか、早苗の交友関係に口を出す権利など、栄一郎には無いのかもしれない。なぜならば、栄一郎と早苗は、別に特別な関係などではない、のだから。
 俺とコイツは、いったいどういう関係なんだ? 俺は、コイツの。
 胸が熱くなる。
 俺はコイツの何だ? コイツは俺の事を。
 栄一郎が胸の内を言葉にした事は無い。だが、二人で逢う機会が何度もあったのだ。早苗が誘いを断る事もしないのだから、そこにはもうすでに特別な関係が構築されているのではないかと考えたところで、それは別に不自然な事ではないはずだと思っていた。それは当然の事なのではないか、おかしくはないはずだ。栄一郎はそう考えていた。
 そう考えていたのは、自分だけだったという事なのか。
「内藤というのは誰だ。言え。言わないと」
 絞め殺してしまうかもしれない。
 そんな殺意が伝わったのだろうか。苦し紛れに口を開く。
「言う。言う、から」
 ようやく開放され、ケホケホと咳き込みながら呼吸を整える。その間も栄一郎は、鋭利な刃物のような視線で見下ろしていた。
「組合作りに協力しろって」
 ようやく口にしたのは、そんな一言だった。栄一郎は、ワケがわからずポカンと口を開けた。
「組合?」
「労働組合を作ろうって話があって。夏に畑山さんが亡くなって、その頃からみんなの間で話が持ち上がって、もう我慢できないから、組合を作って会社に対抗しようって話になって」
 俯き、締め上げられた喉元を右手で押さえながら語り出す。
「お前、アカか?」
「違うっ そんなんじゃないっ」
 俯き加減のまま、視線だけで見上げる。
「じゃあ、何だ? 組合って何だ?」
「六人くらいの女の子が中心になって組合を作ろうって動いてる。男の人は尻込みしてて参加はしてないみたいだけれど。会社も気付いてるはずでしょ? 職制に外出を尾行されたり、親に電報打って辞めさせられそうになってる子もいる」
 そんな事、栄一郎は知らない。
「で? お前もそれに参加してんのか?」
「してない。してない、けど」
「けど?」
「参加しろって」
「どうして?」
「威勢がいいから、だって」
 威勢、ねぇ。
 思わず苦笑してしまうが、早苗の話はそこでは終わらない。
「それに、アンタと、仲が、いい、から」
「え? 俺?」
 早苗は再び視線を落とす。
「アンタは会社側の人間だから、アンタをうまく取り込めば組合作った後の交渉を有利に進める事ができるって。だから、アンタをうまく取り込んでこいって。アンタを取り込んで組合作りに参加しろって言われてる」
「それで、内藤とかって男は何だ?」
「全繊同盟の人。川端さんが声かけて組合作りに協力してもらってるの。アンタを取り込むって考えは、内藤さんの提案だって。何度か会わされて、説得されてる」
「川端?」
「中心になって組合作ろうってしてる人。年上で、女の子の間を仕切ってる感じの人なんだ」
 女工が会社に対抗するために組合を作ろうとしている。それだけでも衝撃的だった。
 労働組合がどうとか、ストライキがあっただとか無かっただとか、そんな話はチラチラと聞く。だが、そんなものは所詮は大手企業相手の問題だと思っていた。栄一郎は無関心だったし、自分にも、父の経営する工場にも縁の無い話だと思っていた。加えて、そんな活動に早苗が巻き込まれそうになっている。なんて、とても信じられない話だ。しかも、自分が原因で。
「私、会社のやり方には不満はある。食事は貧素だし、仕事はキツいし。体調崩しても死ぬまで病院にも連れていってくれないし。親には連絡もしないし。そのクセ会社に都合の悪い事をやろうとすると、娘さんは思想的に危ないから会社を辞めさせてくれ、だなんて電報打ったりして。でも」
 さんざん会社への愚痴を口にして、早苗は一呼吸置いた。
「でも私、組合なんて、よくわからない。中心になってる人も愛知県や岐阜県出身の人ばっかりで同室の人は一人もいないし。年上の人ばっかりだし」
 九州から出てきた少女はたくさんいるが、やはり女工全体の内で占める割合は少ない。親元を離れた寂しさからか話が合うからか、同郷意識が強いのか、どうしても同じ地方出身者で集まりやすくなる。部屋割りもそうなっている。
「みんなの話を聞いてて、自分も勇気を出さなきゃって思ったりもするの。立ち上がらなきゃって。でも、新聞とか雑誌とかの記事を読むと、労働運動とかってなんかすごく激しい活動みたいで、あんな事が自分にできるのかって。それに、家族にも迷惑かけそうだし」
 右手に左手を添える。
「家族には、迷惑掛けたくない。私がアカだなんてデマを広められたりしたら、きっと家族が迷惑する。今年は弟の進学もあるし、姉さんの縁談もようやく決まったところだし」
 瞳を閉じる。
「アンタに話したって、わかんないだろうけど」
「そんな事、は」
 そこで言葉に詰まる。
 もし労働組合に協力しろだなんて言われても、栄一郎は絶対に同意はできない。組合なんて、あれこれ要求して会社を追い詰めて、経営を傾けようとするだけの暴挙集団にしか過ぎないと父はいつも言っている。自分もそうだと思っている。そんな集団に加担するだなんて、そんな事、できるワケがない。たとえ早苗から懇願されたとしても無理だろう。だが、早苗は違う。組合に参加して会社と闘おうなどとは思ってはいないようだが、そうすべきなのかもしれない、などと迷ってはいる。
 二人の間に横たわる、大きな溝の存在を見せ付けられたような気がした。
 俺は支配階級で、彼女は労働者だ。
「わかってる。アンタは会社側の人間だ。こちら側に協力なんてできるワケがない。そんな事を頼むつもりはない」
「でも、取り込めって言われてるんだろ?」
「断ってるから大丈夫。それに、私も組合作りに参加したりはしない。ただ」
 瞳を泳がせる。
「実際に組合ができて会社と交渉する事にでもなったら、私も組合員の一人として動くことにはなるんだろうけど」
 組合員の一人として。
「それだけの話。これで納得?」
「あ、あぁ」
 ようやく顔をあげてニッコリと笑う早苗の顔が、栄一郎には複雑だった。
「ならもういいでしょ。私、戻るね。あぁあ、今日はお茶のお稽古、行けなかったな」
 当て付けのように溜息をつき、ふと真顔になる。
「あ、それから、この話、できれば他の人には内緒にしておいてくれる?」
「え?」
「特に職制とかには。私も、協力はしないって言ったって、裏切り者にもなりたくはないし」
「裏切り者?」
「こちらの情報を会社側に漏らした、だなんて言われたくない」
「あ、あぁ」
 なんか、スパイ扱いだな。
「絶対よ」







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